キリスト教を信じる者よ、悪魔の誘惑に負け、偶像を拝む様な事は止めよう。

2018年12月24日

「「「キリスト教を信じる者よ、悪魔の誘惑に負け、偶像を拝む様な事は止めよう。」などの文面を読むと、何言っちゃってんの?と思う方も多いとは存じますが、少々専門的分野ですのでし、長文ですし、難しそうな事も書いて有り、ハードルも高そうですが、読んで理解して頂ける方も多いと思っておりますので、最後まで読んで頂けると幸いです。

ご意見や質問も有りましたら、以下にありますディスカッションに投稿可能ですし、上のメニュー内のログインから会員登録をして頂けると、ディスカッションでの議論が容易になります。

書き込まれたコメントは公開されますのでご注意ください。公開を希望されない方は、上のプライバシーポリシー内にメールアドレスが記載されておりますので、メールにてお問い合わせください。

第1章

私たち人間は、過去に正しいと思われていた事について、今の時点で誤りが有った事に気づいたとしても、容易にそれを認めようとはせず、今までの伝統を正当化しようとして、何故か必死に抗する事が好きな傾向が有る様に思います。それが既得権化し、それにより生活の糧を得ているのなら、なおさら認める事すら拒絶する人も多いでしょう。

神様を愛する事は真理を愛し、真実を愛する事だと思いますが、ある人は真実に向き合う事を拒むのです。聖書ではれを罪だと定めている様です。

人は誤った知識を、正しいと思い込む傾向が有り、それは真実ではないモノを大切にする事に等しく、偽物の神を本物の神と称して拝むのと、同じだと思います。

偽物を愛する事は、偶像礼拝に等しい罪だと個人的には思います。

神様が偶像礼拝に対し、お怒りになった事が聖書に次の様に書かれています。

出エジプト32:1-14

第2章

逆の立場である、神様の側に立って考えてみたいと思います。

神様はイスラエルの民を特別に、直接影響されていて大切に育んできました。
多くの民は人の造った偶像を拝んでひれ伏す中で、彼らに見えないが唯一の神様の存在を知らしめて、正しく導こうとしていたと思います。

エジプトから導き出した後には、彼ら自身の民同志が信頼関係を築き、平和に過ごせるようにと、次の様に戒律も与える事により、全ての民の中でも抜きん出て、民族の集団になる様な秀でた仕組みをも与えたのです。

出エジプト20:1-17

神はこのすべての言葉を語って言われた。
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

一般的には、モーセの十戒と称されて省略されて掲げられているものを目にしますが、全文を読む事により非常に優れた戒律である事が読み取れます。

余談になるのですが、最後の部分「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」を読んで気づいたのですが、これは隣人だけの事では無く、全ての民全般に対して、人の生活の糧を奪うな。という戒律にも受け取れます。

つまり過度な市場の自由競争等などの名目により、経済的に奪い奪われ争う事に対し、それは罪だから止めろ!という神様の警告の様にも思いました。

 

話を元に戻しますが、神様は嘘がお嫌いの様です。偽物がお嫌いの様です。人と人との信頼関係を損ねる事がお嫌いの様です。神様は人と人が暮らす平和な関係を築く事を推奨される方の様です。

逆に民が真の神様以外を拝む事については、お嫌いの様です。例えば人が真の神様以外の偶像を造り始めると、どうなるのでしょうか?人は自分勝手に、自分の偶像なる神を造り拝み、その他の人に自分の偶像なる神を拝むように勧めたり強要したりするでしょう。

それに対して、自分の偶像なる神を拝まない者には、敵対心を持つ事は避けられないでしょうし、その先には不信からの戦いが起きるのは人の歴史を見ても明らかです。

人は偶像を掲げる事で、自分の偶像を人が崇めてくれるため、自分が崇められている様に嬉しいのだと思います。

その様な人の特性を知っているからこそ、最初の金の子牛の像を真の神の如く拝む思いで造った事も分かっていながら、民のその先の行く末を考えると、金の子牛の像を造った事は真の神様から離れる端緒であると判断されたのでは無いでしょうか?

つまり、離反の始まりの芽は最初から摘む事が、最善の策であると神様が判断されたと理解するのが良いと思われます。

第3章

この出エジプトのシーンでは金の子牛という「像」という神様を象徴する物でも、離反する端緒になる事が分かりましたし、罪である事を理解するのが容易です。

しかし、この様に「像」も罪なのに、「像」を拝んでも正当化する教えがある様ですし、おかしな世界になっている感じがします。更に深く考えてみると「像」では無いが、神様から離れる教えにつてはどうなのでしょうか?

例えば次の様なニカイア信条と呼ばれる文章が、カトリック教会の第1ニカイア公会議(325年)という最初の公会議で採択されました。

我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。

我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。

また我らは聖霊を信ず。

主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。

まずこれを読むと、イエス・キリストを主としていながら、主イエス・キリストが十字架で亡くなった事が他人事の様であり、極端に言うと、まるでイエス・キリストと関係が無い人の作文の様にも思えます。

私の主イエス・キリストの死が、私と関わり合いが有る事は、次の旧約聖書に書いてある通りです。

イザヤ53

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

私の主イエス・キリストは、私の罪を負い、神様に取りなしをしてくれたのです。こうして、私はイエス・キリストに救われ、私はイエス・キリストを主と呼び、イエス・キリストは私を友としてくれたのです。私はこのイザヤ53を読むと、心に痛みと、涙が出ます。心に割礼があるからだと思います。皆さんはどうですか?

貴方はイエス・キリストと関係のある人ですか?関係の無い人ですか?

ウィキペディアにはニカイア信条について次の様な事が書かれています。

「ニカイア信条の中で父と子は「同質」(ギリシャ語:ホモウーシオス)であるという表現が使われたが、この語の使用は聖書にない言葉がはじめて教義の中にとりいれられたという意味で画期的な出来事であった。」

あれ?何故画期的なのでしょうか?イエス・キリストの言葉に留まるのは何処へ行ったのでしょうか?主の言葉から逸脱する事が画期的なのでしょうか?もう既に、ここから主イエス・キリストの道からの逸脱が始まっているのが分かります。

また次の部分「公同なる使徒的教会は、呪うべし。」も気になります。使徒パウロが次の様に書かれている部分から用いられていると思われますが、使徒パウロ自身が呪う行為を行うと宣言している訳では無く、個人的な意見を述べているに過ぎません。

ガラテヤ1:8

しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

しかし、「公同なる」との宣言も自称でしか無く「使徒的教会」なるも自称でしかありません。それらの団体らは自分たちの考えに反する者たちを「呪う」と宣言しているのです。

全ての民の為に十字架に架かった主イエス・キリストは何処へ行ってしまったのでしょうか?

彼らが呪うと宣言した者に対しても、主イエス・キリストは犠牲となったのではないでしょうか?

明らかに、主イエス・キリストから離反した宣言である事は、明白です。

ですから、カトリック教会が言い広めているキリスト教は、主イエス・キリストの教えでは無いのです。

 

更に古いといわれている使徒信経(口語訳)を次に見てみます。

わたしは、天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。
わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠(えいえん)のいのちを信じます。
アーメン

これではイエス・キリストが主である事だけしか関わり合いが無く、何故イエス・キリストが主なのかが分かっていない様な文章ですね。これでは王様と家来の主従の様な関係性しかありません。主イエス・キリストはもっと身近な存在であり、友なる存在です。

この文章だとイエス・キリストの死はポンティオ・ピラトだけが悪者になり、私個人的の罪を担った主イエス・キリストは消え去ったかの様です。主語が「わたしは」と個人的な関係を言い表しており、ニカイア信条よりかは未だマシな感じですが十分とは言えません。

これは個人的な推測ですが、使徒が全て亡くなった後、急速に主イエス・キリストとの関係性が薄れて行った様に見受けられますね。

第4章

神様も存在していますが、悪魔も存在していると個人的にも思います。

その悪魔ですが、使徒がいなくなった後で、人の気づかない様に影響を与えて来たものと推測も出来ます。聖書にはイエス・キリストと悪魔の戦いについては次の様に記載されています。

マタイ4:1-11

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

イエス・キリストの戦い方は、神の言葉で戦っている様です。悪魔の方は巧みに神の言葉さえも使って誘惑してきますが、それに対しイエス・キリストは右にも左にもそれず、ただ神様だけに従う事に注視している様に見受けらます。

これは揺るぎない神様の言葉だからこそ、悪魔に打ち勝つことが出来るのでしょう。逆に、人の思い付きでどうする事も出来ない事も推測出来ます。いくら伝統ある信経とかであろうとも、人の造った言葉では霊的にも無防備であり太刀打ち出来ません。

やはり真の神様を拝むために人が造った言葉や文章も、アロンが造った金の子牛の如く、神様の御心から離れだす端緒になるモノであり、神様を拝むと装って、人の造った言葉や文章を神の如く敬うのは、神様から逸脱する端緒になるものと思います。これもまた偶像礼拝の一種ですね。

気付いたのですが、やはり最後の戦いが、一番恐ろしい誘惑であると思います。

今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

これを読んでピンと来ましたが、もしかしたら初期のカトリック教会は、ローマ皇帝にキリスト教を信仰する様にとか、ローマ帝国を国教とする為とかで、悪魔を拝む誘惑に負けたのではないでしょうか?

既に神の言葉ではなく、人が造った使徒信経を信じる様になった頃でしょうし、悪魔の誘惑に抗する術も無く、妥協や堕落して行ったのでは無いかと推測が出来ます。

そう考えると、カトリック教会の歴史が血塗られた歴史である事にも辻褄が合います。

プロテスタントでもカトリック教会の教えについてはイエス・キリストの教えでは無いと反発した様ですが、その反発した人の教えに従ってしまい、父なる神様に十分に心が戻らず妥協が入り、人の教えに従う事で神様を拝んでいると思わせながら、実は人の造った偶像なる人の造った教えを盲人の如く妄信しているのでは無いでしょうか?

人それぞれ聖書を読み、神様だったりしているかも知れませんが、肝心な教会はどうでしょう?、悪魔は知らないうちに入り込みやすい存在と思いますし、過去の歴史から、悪魔にとりつかれているのではないか?などと思う事も多々あります。カトリック教会では神様を拒む悪魔的な中国共産党と合意した様ですね。もう悪魔の誘惑を受けて堕落するのは止めませんか?人の造った偶像なる教えを大事にして、真の神様に仕えるのを、拒んだり、妥協したり、堕落したりするのはもう止めませんか?

悔い改めて、人によって造られていない、全知全能なる、唯一の神である、父なる神様に心を捧げるべきでは無いでしょうか?

それには、人の造った言葉を入れず、純粋に主イエス・キリストの言葉にとどまり、イエス・キリストが歩まれたように自らも歩む必要が有ると思います。

残念ながら、純粋に主イエス・キリストの言葉に留まっているはずの教会でも、何かしら人の考えが入っていたり、事実や真実と違う事を信じていたり、妥協が入り込んでいます。

その様な人が造った障壁の様な信経の様なモノがあると、ただでさえ救いのハードルが高いのに、更に高くする事に繋がり、救の妨げになると思われるので、全ての教会では妥協せず、何を信じたら良いのか見極めて研磨する事が望まれます。

逆に人が造った障壁の様な信経の様なモノが有ると、人の造ったモノを妄信する事を学ぶ事になり、神様の御心から離れ易くなる事は容易に想像出来ます。

ですから、イエス・キリストに従う者は、自分を捨て、過去に人の造った教えを捨て、自分の十字架を背負い、イエス・キリストに従う。それは。主イエス・キリストが望まれた事ですね。

マタイ16:24-27

この様にカトリック教会に於いても、神様を恐れ神様に対する信仰はある事は確認出来ました。ですが必ずしも十分とは言えず、まだまだ悔い改めが必要な様に見受けられますので、残念であるのには変わりはない気がします。