「世界の皆が、神様を愛し、善悪を聖書から学べば、世界は平和になりますか?」と言う質問を受けたのでお答えします。
残念ながら、聖書を学び、神様を愛し、隣人を愛する事や、善悪を学んでも、世界に平和はもたらされません。過去に事例があるのです。
2000年前に聖書を良く学び、神様を愛し、隣人を愛する事を学んでおり、実行しているはずのユダヤ人は、神様から遣わされた神の子であるイエス・キリストを十字架に架けて殺してしまいました。
なぜ彼らはこの様な事をしたのでしょうか?
それは、ユダヤ人たちは神様に従う行いを行ってこそ神様を愛する事だと思い込み、自分たちは忠実に行っているから自分たちこそ「神様に認められる相応しい者だ」と思い込んでしまい、本来の掟である神様を愛する事から心が離れて、盲目の様に道に迷う者になっていました。
そこに、神様から遣わされた神の子であるイエス・キリストが現れ「君たちは盲人だ。」「君たちは道に迷っている。」と指摘されましたが、ユダヤ人たちは「我々こそ神様に忠実な者であり、貴様(イエス・キリスト)の様な無明なる輩の存在している事こそ、神に背いている事に他ならない!」と逆上して、口封じの為に殺してしまったのです。
盲目になるのはユダヤ人だけではありません。「自分たちこそ神様の代理人として相応しい者だ。」と思い込むと、その人は盲人となり、神様を侮る者となり、高慢になる事で、神様に対し敵対する者になるのです。
ユダヤ教徒しかり、キリスト教徒しかりです。
聖書を読んでも、神様に祈っても、残念ながら、それだけでは足りないモノがあり、平和は訪れないのです。
神様より最も大切な掟、神様を愛し、隣人を愛し・・・
普通に語られていますが、神様を愛するって、何をする事なのかご存知でしょうか?
まずは聖書におけるイエス・キリストが模範として示してくれている愛についてですが、それは「よく人に聞く」と言う点がポイントだと思います。
イエス・キリストはよくニーズのありそうな人に、聞いているのです。「どうしてほしいのか?」とか、「良くなりたいか?」と、
イエス・キリスト自身はその人のニーズを熟知しているはずなのにです。
これから考えると、愛の一例となりますが、①ニーズを聞き、②理解して、③答える。
この様な一連の動作が、愛するという基本的な行動パターンとして示してくれているものと思います。
さて、ここで質問です。神様のニーズって何だと思いますか?
新約聖書には分かり易く語られていますので、是非、神様のニーズは何だろう?という視点で、聖書を読んで、神様のニーズを見て理解する事を勧めします。
そこから、世の全ての人々に平和が訪れる神様の計画を読み解く事が出来るでしょう。
ディスカッション
コメント一覧
父エホバと子イエスの教えは全く同じものです。ヨハネ14:10
「イエス・キリスト」の教えと「エホバの証人」の教えとは違いが有りますが、認識されているのでしょうか?
救いは万人に差し伸べられました。それを宣教しています。しかし万人が救いを受け入れるわけではありません。救いは強制は出来ません。
それはそうです。イエスの教えを教えると言って、エホバの教えを教えるのは如何なものなのでしょうか?
ユダヤの民が金の子牛を造った際に、神様はユダヤの民を滅ぼそうとお怒りになりました。
しかし、モーセは神様を説得し、神様の怒りがユダヤの民に及ぶのを防ぎました。
イエス・キリストは全ての民の為に、十字架に架かられ、罪を担われました。全ての民を救うためです。
貴方の心は何処にあるのですか?
仮に世界中の人全てがそう出来たなら、世界は平和になるでしょう。しかしマタイ7:13-14によると、世界中の人全てがそうなることはないでしょう。