ヘブル人への手紙(新改訳新約聖書(1965年版))
ヘブル人への手紙
第1章
- 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
- この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
- 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
- 御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。
- 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」
- さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」
- また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、
- 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。
- あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」
- またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
- これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。
- あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」
- 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」
- 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。
第2章
- ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
- もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、
- 私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
- そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。
- 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
- むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
- あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、
- 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
- ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
- 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
- きよめる方も、きよめられる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
- 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
- またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
- そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
- 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
- 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
- そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
- 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
第3章
- そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
- モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
- 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
- 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
- モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
- しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
- ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
- 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
- あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
- だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
- わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
- 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
- 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
- もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
- 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
- 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
- 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
- また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
- それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
第4章
- こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
- 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
- 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
- というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
- そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
- こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
- 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
- もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
- したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
- 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
- ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
- 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
- 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
- さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
- 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
- ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
第5章
- 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。
- 彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
- そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。
- まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。
- 同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。
- 別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
- キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
- キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
- 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、
- 神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
- この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
- あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
- まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
- しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
第6章
- ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
- きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
- 神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
- 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
- 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
- しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
- 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
- しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
- だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
- 神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
- そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
- それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
- 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
- こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
- こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
- 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。
- そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
- それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
- この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
- イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。
第7章
- このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
- またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。
- 父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
- その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。
- レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。
- ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。
- いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。
- 一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他のばあいは、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。
- また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。
- というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。
- さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、――民はそれを基礎として律法を与えられたのです。――それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。
- 祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
- 私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
- 私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。
- もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。
- その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
- この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」
- 一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、
- ――律法は何事も全うしなかったのです。――他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
- また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。
- ――彼らのばあいは、誓いなしに祭司となるのですが、主のばあいには、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」――
- そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
- また、彼らのばあいは、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。
- しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
- したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
- また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
- ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
- 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。
第8章
- 以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、
- 人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。
- すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。
- もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。
- その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」
- しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
- もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。
- しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
- それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
- それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
- また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
- なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
- 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。
第9章
- 初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
- 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。
- また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、
- そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナのはいった金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
- また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。
- さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつもはいって礼拝を行なうのですが、
- 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
- これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
- この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
- それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
- しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
- また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
- もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それがきよめの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
- まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
- こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
- 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
- 遺言は、人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は、決して効力はありません。
- したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。
- モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
- 「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。
- また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
- それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
- ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
- キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです。
- それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所にはいる大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
- もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
- そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
- キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
第10章
- 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
- もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
- ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
- 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
- ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
- あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
- そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
- すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、
- また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
- このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちはきよめられたものとされているのです。
- また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
- しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
- それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
- キリストはきよめられる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
- 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
- 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。
- 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
- これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
- こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
- イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
- また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。
- そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
- 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
- また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
- ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
- もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
- ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
- だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
- まして、神の御子を踏みつけ、自分をきよめた契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
- 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われる方を知っています。
- 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
- あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
- 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめに会った人々の仲間になった者もありました。
- あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
- ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
- あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
- 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
- わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
- 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
第11章
- 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
- 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
- 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
- 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
- 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
- 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
- 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。
- 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
- 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
- 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
- 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
- そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
- これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
- 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
- もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
- しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
- 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
- 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
- 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
- 信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。
- 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。
- 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
- 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
- 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
- はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
- 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
- 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
- 信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。
- 信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。
- 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。
- 信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。
- これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
- 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、
- 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
- 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。
- また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、
- また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、
- ――この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。――荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。
- この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
- 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
第12章
- こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
- 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
- あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
- あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
- そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
- 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
- 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
- もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。
- さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
- なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分のきよさにあずからせようとして、懲らしめるのです。
- すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
- ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
- また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。
- すべての人との平和を追い求め、また、きよめられることを追い求めなさい。きよくなければ、だれも主を見ることができません。
- そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
- また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。
- あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。
- あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
- ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
- 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。
- また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。
- しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
- また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
- さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
- 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
- あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
- この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
- こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
- 私たちの神は焼き尽くす火です。
第13章
- 兄弟愛をいつも持っていなさい。
- 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。
- 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。
- 結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。
- 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
- そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
- 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
- イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
- さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。
- 私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。
- 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
- ですから、イエスも、ご自分の血によって民をきよめるために、門の外で苦しみを受けられました。
- ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
- 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
- ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
- 善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
- あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
- 私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。
- また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。
- 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
- イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
- 兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。
- 私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。
- すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
- 恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。
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