「神でない者が、神に代わって、「善悪の判断をする指針」を決定するのは独断ではありませんか?」との質問に回答します。
> >世界共通で、善悪の判断をする指針は、神様が与えてくれた聖書以外には、無いのです。
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> 神でない者が、神に代わって、「善悪の判断をする指針」を決定するのは独断ではありませんか?
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> 「世界共通」「聖書以外に無い」の根拠を導き出せるのは、「神」以外には、誰もいないはずです。
> 人が神について語ることは、常にその人の独断が入り込んでいる。
> そうなりませんか?
おっしゃるりたい事は、理解出来ます。
まず人に律法を与えたのは、モーセと言う預言者です。
予言者では無く、預言者と言う文字が使われていますが、これは神様から言葉を与って、人に伝える役目を、神様から与えられた者の事を言います。
モーセが全知全能なる神様の使いの者である事は、出エジプト記に記載されているので省略します。
以下記載の為、お読み下さい。
モーセが預言者である事は、以下の主に4つ宗教の信者らが認めている事です。
キリスト教信者数:20億人
イスラム教信者数:16億人
ユダヤ教信者数:1400万人
バハーイ教信者数:600万人
逆に、モーセが神様からの預言者では無いとする根拠を伴う主張は、未だ知りません。
では、聖書以外に判断出来る指針は無い。とする事が出来る根拠は、イエス・キリストが次の様に述べているからです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
ヨハネ福音諸14:6-11
ここには父なる神様に至るには、イエス・キリストご自身の道以外には無いと、イエス・キリストご自身が述べています。
この段階では、イエスは嘘つきか、本当の事を言っているか、の二択しか残されていません。しかし、この後、イエスが十字架において、殺されて、葬られて、三日目に復活した事により、イエス・キリストは神様から遣わされた方である事が証明されました。
旧約はイエスが現われる前に、約束されていた予言が書かれており、新訳にはメシアであるイエス・キリストとは何者か、どの様な方であるのか、イエスに弟子として使えるとは、どの様な事なのかが書かれてあると言えます。よってイエス・キリストを主人公と考えた場合に、旧約と新約は一体であると認める事が出来ます。
また、イエス・キリストがここで公言している通り、イエス・キリストを見て知る事は、神を見て知る事と同じなのです。
そして、イエス・キリストは、イエス・キリストを信じ、従い、真の弟子となる者に、聖霊をお与えになるのです。
これは真理に導いてくれる、神様の使い、イエス・キリストの霊と言われる存在であり、この方の導きでイエスの弟子は神様と繋がり、神様の御心に導かれるのです。
聖書の役割は、ここに至るまでの養育係であると、ガラテヤ人の手紙3:20-24にはこう書かれています。
仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。
とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
イエス・キリストは神の子で、嘘偽りが無かった方である事は、個人的に確認出来ましたし、それを私は証しているのです。
神様は2000年前に影響されて後、それっきり影響されなくなり、既に死んでしまったのか?などの様な事は全く無く、神様は、今現在もおられて、全てに働かれておられる方なのです。
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